2021-02-04
絵本は、少ない文章が情景を描いた絵に助けられ文脈をなし、聞き手に与えられた次のページをめくるまでの時間が非認知能力を育むものだと思うのだけれど、その文字にされていない部分を補足して語ってしまう読み手がいてびっくり。その読み取りの自由は子どもの権利であり、子どもに委ねられるもの。
— nssk (@yuuummy) 2021年2月4日
⇒『読み取りの自由は子どもの権利』か。唸らされた。
自分の場合、園ではやらないのだが、家で息子にこれと近いことをやってしまっている気がしたので。
どういうことかというと、家では園とちがって十分な絵本の選択肢がないので、数冊の絵本ではマンネリが来る(←要検証。マンネリを感じているのは俺自身?)ため、以上児向け絵本の背表紙に興味を示すことがある。
こういった場合、「せっかく興味を示したのだから」という理由で手にとるのだが、たいていの場合、字数や展開が発達に合っておらず、興味をなくす。中には読めるものもある。 ↓
・・と、発達に見合わず早いならそれで終わりにしていいはずなのだが、自分の中の親ばか(という名のナニカ?)がそれを邪魔してくる。
ここでやりがちなのが、『割愛』と『脚色』である。
ツイートにあったような意味での『補足』ではないのだが、息子が「絵本」という乗り物から振り落とされ脱落しないよう、絵本を楽しめるよう、転ばぬ先の杖よろしく、文章を飛ばし、セリフを抜き出し、擬音語を加えるなどの即興的『編集』をしてしまっていることに気付いた。
結果、「集中して聞いて」(妻談)いたり、その時間を楽しんで見えることもあるのだが、それすらもやはり、やめたほうがいいのだろうか。
おそらく、子どもに解釈をゆだねることを徹底するならやめるべきなのだろう。
子どもの主体性という観点からも、この方の指摘はド正論だと思うからだ。
だからこそ絵本選びは大切ということかもしれない。年齢、発達、興味や志向に合ったものを。